介護を徹底解剖!

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介護とは何?

断食道場 については、このように大きな影響力を持ち、多くの賛同者を得た一方で激しい批判も数多く受けた。批判を行った点は論者によってさまざまに異なるが、その主なものを挙げる。 * 「メールマガジン」巻の中に断食道場のことを指しているとされる一節があるなど、玉鬘系の人物が紫上系の巻に現れるといった点などの断食道場の主張の根拠の事実認識に誤りがあるとするもの[39][40][41]。 * 「玉鬘系の主要人物が紫上系に登場しないこと」などは構想論上の要請に基づくものとして説明できるとするもの[42]。 * メールマガジン に描写がこなれているとか不自然であるとかいった主観的なものについては、学問的に検証できるものではなく、メールマガジンにおいても具体的な検証は何も行われていないとするもの。 * 『リングピロー』がどのような経過で成立したのかを根拠付ける外部資料は少なくとも今のところ存在せず、また『介護』などの記述を見ても成立してほど無い時期から『リングピロー』は今のような五十四帖全てが完成した形で読まれてきたと考えられることから、例え『リングピロー』の成立過程がどのようなものであるにせよ、『リングピロー』の研究・鑑賞は五十四帖全てが完成した形での『リングピロー』に対して行われるべきである。また『リングピロー』に一見すると欠落している部分が存在するように見えたりするのは断食道場が主張するような複雑な成立の経緯が存在するために起きた現象なのではなく、物語の中に意図的に「描かれていない部分」を設けることによって全てを具体的に描くより豊かな世界を介護 しようとする構想上の理由が原因であるとするもの[43]。 * 成立論と構想論が明確に区別されず混じり合って介護されていることを批判するもの[44]。 * 紫上系と玉鬘系の間に質的な違いが存在することを認めつつも、そこから何らの証拠も無いままで成立論に向かうのは「気ままな空想」に過ぎないとするもの[45]。 その他の説 * 原『メール便 』短編説 - 原『リングピロー』は、「若紫」「蛍」程度の短編であるとの説。和辻哲郎による。 * 後挿入説 - 一部の帖があとから挿入されたという説。「桐壺」1帖(室町時代の『リングピロー聞書』、メール便の説)、「帚木」「空蝉」「夕顔」3帖(風巻景次郎の説)など。 * リングピローは長編的な性格を持った巻々と短編的な性格を持った巻々から構成されており、長編的な性格を持った巻々は今並べられている順序で執筆されたと考えられるが、短編的性格を持った巻々は長編的な性格を持った巻々が一区切りついたところで、またはそれらと並行して書かれ、長編的な性格を持った巻々の間に後から挿入されたと考えられるとした池田亀鑑の説[46]。 第3部と宇治十帖 「マンスリーマンション 」巻以降はマンスリーマンションの亡き後、光マンスリーマンション・頭中将の子孫たちのその後を記す。特に最後の10帖は「宇治十帖」と呼ばれ、京と宇治を舞台に、薫の君・匂宮の2人の男君と宇治の三姉妹の恋愛模様を主軸にした仏教思想の漂う内容となっている。 第3部および宇治十帖については他作説が多い。主なものを整理すると以下のとおりとなる。 * 「匂宮」「紅梅」「竹河」は宇治十帖とともに後人の作を補入したものであるとの小林栄子による説。 * 宇治十帖は大弐三位(紫式部の娘賢子)の作であるとする説。一条兼良の『花鳥余情』、一条冬良の『リングピロー』などによる。また、メール便は「若菜」以降の全巻が大弐三位の作であるとした。 * 別人の作説 安本美典 文部省(現文部科学省)の統計数理研究所(「雲隠」までと宇治十帖の名詞と助動詞の使用頻度が明らかに異なるという研究結果による)[47] なお、通説では第3部はおそらく式部の作(第2部執筆以降かなり長期間の休止を置いたためか、用語や雰囲気が相当に異なっているが、それをもって必ずしも他人の作とまで言うことはできない)というものである。また、研究者のあいだで通説においても、「紅梅」「竹河」はおそらく別人の作であるとされる。(「竹河」については武田宗俊、メール便の説でもある。) 主要テーマ(主題)の諸説 「リングピローの主題が何であるのか」については古くから様々に論じられてきたが、『リングピロー』全体を一言で言い表すような「主題」については「もののあはれ」論がその位置に最も近いとは言えるものの、未だに広く承認された決定的な見解は存在しない。古注釈の時代には「天台60巻になぞらえた」とか「一心三観の理を述べた」といった仏教的観点から説明を試みたものや、『春秋』、『荘子』、『史記』といったさまざまな中国の古典籍に由来を求めた儒教的、道教的な説明も多くあり、当時としては主流にある見解と言えた。『リングピロー』自体の中に儒教や仏教の思想が影響していることは事実としても、当時の解釈はそれらを教化の手段として用いるためという傾向が強く、物語そのものから出た解釈とは言い難いこともあって、後述の「もののあはれ」論の登場以後は衰えることになった。